この物語には、このお酒を。
ハブ酒
バス停まで送るね、と言った女友だちは「あなたは何曜日が嫌い?」と聞いてきた。「日曜の夜かな。お前は?」「土曜の夜。今よ」そこまで言われても、あのとき家ではなく、彼女の部屋に戻る勇気はなかった。男の人生は、後悔が積み重なってできている。でも、その厚みが限界を迎えると崩れ去り、源太さんのように熱く、前を向けるのかもしれない。生きてる限り未来は続く。パートナーと一緒だとそれは光輝く。男に必要なのは、忘却と希望とハブ酒だ。
作/ 羽月 みゆき
ロクはカウンター内で手を動かしながらも、時々窓から外の景色を眺める。
その横顔にはいつものような明るさはなく、ふとした隙に小さなため息をついていた。
「ロクちゃん、お疲れ?」
やっさんがハイボールを飲みながら訊ねた。常連客のやっさんは、つい最近定年を迎えた。
今は、機械メーカーの嘱託として働いている男性だ。
「いえ……。まぁ、体は元気ですけど……」
ロクは張りのない声を出した。やっさんの隣に座る美佳が、おや、といった表情でロクに声をかけた。
「なんだかロクちゃんのアンニュイな表情を見ていると、恋煩いなのかなって思っちゃった」
美佳はわざと明るい調子で言う。しかし、ロクは無言のままだ。
「……え、まさか、ほんとに……?」
ただならぬ空気を察した美佳とやっさんは、慎重にロクの様子をうかがった。
ロクは、淋しそうな目しながらも、口元だけわずかに笑みをたずさえた。
「あの子が幸せなら、もう、いいんです……」
「え……、ロクちゃん、その子とはダメになっちゃったの?」
状況を読んだやっさんは、驚きながらもロクの「恋煩い」を聞こうと思った。
「僕がダメだったんです。マリちゃんのために良かれと思ってやったことが、裏目に出ちゃって……。あの子のことを理解してやれなかった」
ロクは後悔を滲ませながら言葉を紡いだ。美佳はそんな様子をただ黙って見つめているだけだ。
「ねぇ、ろくちゃん。その子は……マリちゃんは、どんな子だったの?」
やっさんは遠慮がちに訊ねた。
「クールな顔立ちのわりに、甘え上手で。でも、いつもベトベトしない。飄々としたところもあるんです」
「なんかさ……、すごくいい感じじゃない、その子。俺、ちょっとだけロクちゃんがうらやましいなぁ……」
やっさんは、マリちゃんについてあれこれ想像を巡らせているとき、店の扉が開いた。
入ってきたのは源太だ。串カツろくの最高齢のお客で、御年83歳。男やもめだが、畑仕事をしながら、コーラス教室や卓球教室にも通い、高齢にも関わらず活動的だ。
「ロクちゃん、生ビールに串カツ5本、おでん盛り合わせもね」
張りのある太い声で注文する源太さんは、アルコールも食欲も旺盛だ。
「源太さん、今日はもう二軒目ですか?」
やっさんは尋ねた。
「いいや。一軒目だよ。最近はあんまり深酒しなくなったなぁ」
「そうなんですか?相変わらず元気そうですけど」
「うーん。ちょっと会いたい子がいるからね」
何気ない調子で言った源太の台詞に、やっさんは驚いた。
「え!?源太さん、そんな子がいるんですか?」
「まあね」
源太はにやりとして、生ビールをゴクゴクと飲む。
「すごい……。年齢って、関係ないですね」
「そうだよ。何事も、熱いハートがあるかどうかだよ」
やっさんは、畏怖の念を抱きながら隣りの老人を眺めた。源太のTシャツからは、盛り上がった腕の筋肉が目立つ。胸板も厚いが、全体的に体は引き締まっている。確か、毎日の筋トレは欠かせないと言っていた。
年齢に関係なく女性と付き合えるのは、こういうタフな人間のことをいうのか―――
ロクといい、源太といい、色恋にうつつを抜かしている奴が、こんなに身近にいるとは……。
やっさんは、自身の慎ましくも地味な暮らしを嘆き、少し自棄になってハイボールを飲み干した。
今日も串カツろくは繁盛していて、お客さんがひっきりなしに出入りしている。
ひと段落付いた頃、ロクが源太に向かって遠慮がちに訊ねた。
「あの……あの子、元気にしてますか?」
「ああ、マリか。心配しなくても、元気過ぎるくらいだよ。最近はますます太ももがムッチリしてきてな……。いい体になったよ」
「……よかったです」
やっさんは二人の会話を聞いて、驚きのあまりビールを吹き出しそうになった。
「え……、ちょっと、待ってください。マリちゃんはロクちゃんの……」
「実はね、今は俺のところに転がってきてるんだよ」
「は……はぁ!?」
「さっき、会いたい子がいるって言ったでしょ?それがマリだよ。今も俺の部屋で首を長くして待ってるんだ」
「ちょ、ちょっと……マリちゃんて相当ヤバい子なんじゃ……」
やっさんは動揺を隠せなかった。
「マリちゃんはいい子ですよ。僕、彼女との楽しい思い出は沢山あります。マリちゃんは、店の裏の駐車場によく来ていたんです。それから仲良くなって……」
ロクが感慨深く言った。
「で、でも、ロクちゃんの次は、源太さん!?その子、一体どうなってるんですか!?」
「やっさん……。僕はね、ぬくもりを用意できなかったから。マリちゃんにさみしい思いをさせたからいけないんです」
ロクは、やっさんの興奮を抑えるような口調で言った。
「いやいや。ロクちゃんだって、マリに尽くしてたじゃないか。あの子の好きなものを作ったりしてさ」
源太のフォローはあまりロクに効いていないようだ。ロクは俯いたまま、首を横に振る。
「はい……。マリちゃん、出会った頃はガリガリに痩せていて。肉や魚を豊富に使ったご飯を食べさせたんです。あまりに勢いよく食べ続けるから、野菜をメインにしたものを取り入れたら、そっぽ向いちゃって……。それから全然会いに来てくれなくなったんです。しばらくして、源太さんとマリちゃんが腕を絡ませながら歩いている姿を見たんです」
「おう。マリがおれんちの周りをウロウロしていたからさ。牛肩ロースを焼いてあげたら、すっかり俺に夢中になったんだよ。日に日に毛の艶も良くなってきて、いい女になったもんよ」
源太の話を聞くロクがいつになく元気が無いので、やっさんは気が気ではなかった。
――マリって女、とんでもなく魔性だな――
やっさんは心の中で毒づいた。
ロクの気持ちを振り回し、源太さんに鞍替えするとは―――
「しかし、マリの奴。こないだ大暴れしたんだよ。思い切り、俺の腕をひっかきやがった」
そう言って、源太さんはシャツを捲った。右腕にはひっかき傷の跡が生々しく残っている。
「ひぇ……。やば過ぎますよ、それ」
やっさんは恐怖に震えた。ますます「マリ」という女に異端者のレッテルを貼りたくなった。
「なにかあったんですか?」
ロクは尋ねると、源太さんは溜息をもらした。
「まぁ。俺が悪かったんだけどね。あいつの爪が長すぎたから、無理に抑えつけて切ろうとしたら、このざまだ。ひっかいたあとの逃げ足が速くて、捕まえられなかったよ……腹が減ってるときだったから、なおさら機嫌が悪かったんだな」
「マリちゃん、お腹空いていると大抵ご機嫌ナナメですよ。困ったときはスモークチーズです。これを与えれば、素直になります」
「なるほど、スモークチーズね。マリの手の届かないところに、保管しておこう」
源太さんはやや楽し気に、スモークチーズ、と繰り返し唱えていた。
「なぁんだ。そういうことか」
それまでおとなしく話を聞いていて美佳が、突然声をだした。
「み、美佳さん、どうしたんですか?」
やっさんはきょとんとした表情だ。
「二人の話を聞いていて、なにかがおかしいなって思ってたのよ」
「え……、何がですか?」
「もう。ロクちゃんも源太さんも、もったいぶらなくていいのに」
「なんのことですか?」
ロクも源太も身に覚えがない、といった様子だ。
「だからぁ。マリちゃんって、猫なんでしょ?」
美佳は得意げに言い放った。
「長い爪。大暴れして、ひっかき傷。すばしっこい逃げ足。スモークチーズ……猫以外、考えられないわ!」
「そ……そっかぁ!ようやく腑に落ちたよ。そうだよねぇ。マリちゃんみたいな子、実際にいたらおかしいよね!」
美佳とやっさんは向かい合って笑う。
「え……。何がおかしいの?」
ロクは真顔で訊ねた。
「だってー。ロクちゃんも源太さんも猫のことで夢中になりすぎなんだもの」
「誰が猫だなんて言いました?」
冗談が通じないロクに、美佳は、え?と言って目を泳がせた。
「えっと……。それじゃあ、ロクちゃんと源太さんが、女の子を共有していることになるじゃない?そんなのって……」
「それが何か?」
ロクの毅然とした口調に対し、美佳もやっさんんも、開いた口が塞がらなかった。
ロクは、心外だ、という顔つきになる。源太も、美佳の発言に対してショックを隠し切れず、大げさに頭を掻きむしった。
「猫だなんて!マリは生身の人間だよ。なんなら、この店にも来たことがあるぞ」
「えええぇ!!」
美佳とやっさんは、驚きのあまりのけぞってしまった。
「マリちゃんみたい子がいるなんて……」
美佳は疑いを拭いきれない。
「だから、今まで話した通りです。マリは実在する子です」
「う、嘘でしょう?」
美佳の声は上擦っている。
「いや、ほんとです」
ロクは真っ直ぐに美佳を見据えて言った。
その後、美佳は言葉を失ってしまった。
やっさんはずっと目が泳いだまま、信じられない、と呟きながら酒を飲んでいる。
源太とロクは、気分屋のマリの対処法について、いつになく真剣な声音で語り合っていた。
この物語には、このお酒を。
バス停まで送るね、と言った女友だちは「あなたは何曜日が嫌い?」と聞いてきた。「日曜の夜かな。お前は?」「土曜の夜。今よ」そこまで言われても、あのとき家ではなく、彼女の部屋に戻る勇気はなかった。男の人生は、後悔が積み重なってできている。でも、その厚みが限界を迎えると崩れ去り、源太さんのように熱く、前を向けるのかもしれない。生きてる限り未来は続く。パートナーと一緒だとそれは光輝く。男に必要なのは、忘却と希望とハブ酒だ。
コメント