この物語には、この1曲を。
青春の影
ラブストーリーは、光と影でできている。青空と雨雲が激しく入れ替わり、秋の公園のような空気が二人を包むまでには長い時間が必要だ。でもそこまで一緒に過ごせたのならどれだけ幸せなことか、と今の千絵さんが教えてくれる。さ、今度は美空が支える番。「お父さんは、きっとお母さんを見つけてくれる。また青春時代から始めたら良い」と伝えるのはどうだろう。
作/ 羽月 みゆき
「あの……。千絵さんを施設に入れること、ちょっと考えてもらっていいですか?」
そう言いながらロクは箱の蓋を開ける。そこには大量の箸袋が入っていた。
朱色の箸袋は、折りたたんだ跡が残っているものや、クシャっと丸めたものを伸ばした状態もある。醤油やソースの染みがついたものもあった。
「全部、千絵さんが使用した箸袋です。これらをカウンターに残したまま帰るんですけど、裏にメッセージが書いてあります。僕、捨てられなくて、全部残してあります」
娘は「だから、何?」といった表情で箸袋を眺める。千絵は、まだ誰かを待っている様子でソワソワしていた。
娘は、書いてある文字を訝しげに読んでいった。
『今日もありがとう』
『またいこうね』
『おいしかったね』
「なに、これ……。」
つまらなさそうに娘は呟いた。
『忙しいのに時間作ってくれてありがとう』
『ちゃんとご飯食べてる?』
『なんで機嫌が悪いの?』
『わがままばかり言ってごめんね』
誰に対して言っている言葉なのか……。
見当がつかない娘は眉間に皺を寄せた。
『月に一回はドライブに連れてって』
『わたしの串カツも、悪くないでしょう?』
『出張ばかりで疲れているのに、会ってくれて嬉しい』
「これって……。」
娘の瞳は、閃光が走ったかのように見開かれた。
しばらくして、虚を衝かれたような表情になる。
『子どもが出来たら、みくって名前にしようか』
娘は思わずはっと顔を上げて千絵を見つめた。
『秋の、澄んだ空を見ていたら思いついたの。美しい空って書く』
娘の、箸袋を持つ手がかすかに震えていた。
「お母さん……、こんな風に私の名前を考えていたの?」
その様子を見て、ロクは語り始めた。
「千絵さんの認知症がまだ軽かった頃。本人から昔の話を聞きました。千絵さんと旦那さんが結婚する前、よく二人で赤提灯の揺れる居酒屋で飲んでいたそうです。二人は互いの家に帰ったあとも、『繋がっていたい』と切に願っていて……。言葉を送り合う手段は、短い手紙。そこで、居酒屋の箸袋が目に留まったんです」
「もしかして。ここに書かれているメッセージが、そのときの……」
娘は驚き、目を見開きながら箱の中の箸袋を持つ。
「お互いメッセージを書き、別れ際に折りたたんだ箸袋を渡す。そして、家に着いたら読む、という約束で……。千絵さん、そう話していたんですよ。ちょっと、はみかみながら。喧嘩をして、『ごめんね』って言葉が出ない時も、箸袋に素直な言葉を託していたそうで……」
『一緒に暮らすなら、台所の広い家がいいな』
『ベランダでバラを育てたい』
『私ばかりが家のことで夢中になっているのが寂しい』
『ずっと一緒に過ごしたい』
娘は箸袋を、大切なもののように丁寧に扱う。
「母が、こんなにも父のことを想っていたなんて、知らなかったです」
彼女は、過去を思い返すように、目を瞑った。
「父と母は、よく喧嘩もしたけれど、それでも仲が良かったと思います。私が小学五年の時、父は車で出張先へ向かう途中、居眠り運転のトラックに追突されて亡くなりました。母の憔悴は激しかったけれど、その後は淋しさを堪えるように、懸命に家庭を支えていました。でも時々、父の帰りを待つように、ずっと玄関のほうを見つめていたり。ベランダに出て、駅から家に続く道を眺めていたりしていました。その時の思いつめた表情は、触れただけで割れてしまいそうなくらいの、哀しみを帯びたものでした」
娘の説明を聞き、ロクは熱いものがこみ上げてきた。
「そうだったんですね……。千絵さんの心には、『旦那さんに会いたい』という気持ちがずっとあって……この店に来ることによって、昔のことが鮮やかに蘇ったんですね」
「だから、こんなにも沢山の言葉を綴って……」
娘は、言葉を詰まらせた。
「千絵さん、旦那さんと出会ってから結婚するまでの、恋焦がれる気持ちが溢れているんです。彼のことが好きで好きで、この気持ちをどうしたらいいかわからないといった風に。千絵さんが鉛筆を握ってメッセージを書く時の表情が、嬉しそうだったり、微笑んだり、にやにやしたり、時にはしゅんとしたり……。僕、そんな千絵さんを見ていると、あたたかさと寂しさが混じり合って、なんだかとても、せつなくなるんです」
「まだ、帰りたくないよぅ」
千絵は、ロクと娘の会話を気に留めることなく、愛おしむようにカウンター席を見つめる。
「ねぇ……。まだ、待っていてもいい?」
その声は小さいが、雨に濡れても萎れない花のように凛としていた。
この物語には、この1曲を。
ラブストーリーは、光と影でできている。青空と雨雲が激しく入れ替わり、秋の公園のような空気が二人を包むまでには長い時間が必要だ。でもそこまで一緒に過ごせたのならどれだけ幸せなことか、と今の千絵さんが教えてくれる。さ、今度は美空が支える番。「お父さんは、きっとお母さんを見つけてくれる。また青春時代から始めたら良い」と伝えるのはどうだろう。
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