好きな道をスイスイ歩く人生ほど、羨ましいものはない。と言ったら「冗談じゃない」というなべさんの声が聞こえてきそう。こう見えて、悩み、熟考して動いてる。だから結果が出る、魅力が重なる、とその声は続く。「個性が渋滞して、ケンカしないかって?このディップ、いっぺん食べてみ」。今度はロクさんが口をはさみそう。強い毒っ気を一緒にしたら、料理も人も忘れられない味を出すのだ。

「僕、そろそろ転職しようかなぁ」

ビールを飲みながら、直樹が呟いた。

「システムエンジニアって大変なの?」

隣りに座るなべさんが、直樹に訊ねた。

「いや、好きな仕事なんですけど、ずーっとパソコンと向き合ってるだけなんで。二十代のうちに、違うことも経験したなって思ってるんです」

「えー。俺なんて、もうすぐ還暦なのに、また転職するよ」

なべさんの返答に対して、直樹は驚いた。

「え!?なべさん、何やるんですか?」

「今度は犬のしつけ教室の講師だよー。俺さ、昔からいろんな犬飼ってるの。おバカなワンコでも、言うことを聞かせることが得意だって自慢話をペットショップでしたら、スカウトされたんだよね」

「なべさん、今の仕事って、フォトスタジオのアシスタントでしょ?犬のしつけって、全然関係ないですよね?」

「いやー。そんなこともないんだ。人間の表情が輝く一瞬を捉えるために、カメラマンと呼吸を合わせるという緊張感の連続……。犬だって喜怒哀楽がころころ変わるでしょ?それを見逃さずに、ハートをキャッチする作業は、共通しているんだ」

「ま……まぁ、そうですかね」

直樹は分かったような、分からないような表情だ。

「ちなみに、フォトスタジオの前は何やってたんですか?」

「ゲイバーでバーテンやってた」

「え……えぇ!?」

「あ、勘違いしないでね。俺はノーマルだから。いやぁ、ゲイの人たちの会話って実に面白いの。時事ネタ、芸能ネタ、なんでも詳しくないといけないんだ。彼女たちは一生懸命勉強してるよ。女性客も多いから、女子トークも上手くないとね。恋愛の悩みとかさ。俺はバーカウンターで、日々いろんなことを学んだよ。人間って面白いね」

直樹は唖然とした表情だ。

「なべさんって、どれくらい転職したんですか?」

「うーん……。真剣に数えたことないけど。多分20回くらいかな」

「20!!」

直樹は驚きのあまり、目を丸くしている。

「俺、興味あることにすぐ首を突っ込むんだよね。ゲイバーの前は探偵事務所、その前は、スーパー銭湯の受付。葬儀屋、幼稚園の送迎バスの運転手、漫画家のアシスタント……」

「なべさん。なんかバラバラじゃないですか?」

直樹の突っ込みに対して、なべさんは真剣な表情になる。

「そんなことはない。俺は徹底した現場主義なんだ。人の呼吸を肌で感じる場所で、皆と一体感を得ながら仕事をしたいんだ。そうすることで、初めて仕事の楽しさを知ることが出来るんだ」

「人の呼吸……一体感……」

直樹はずっと首を傾げながら、腑に落ちない表情でなべさんの言葉を聞いている。

「ちなみに、なべさんが一番しんどかったと思う仕事はなんだったんですか?」

話を聞いていたロクが訊ねた。

「うーん。なんだろう……サクラの仕事かな」

「サクラもしてたんですか!?」

「うん。店を流行らせるために並んでたの。ハンバーグ屋とか、うなぎ屋とか。もうね、並んでいるときから美味しい香りが漂ってくるの。お腹がきゅうきゅう鳴ってね……。だけど、俺がしていたサクラの仕事は、並ぶだけ。食べたいのにお預けって、本当にしんどいよ」

「欲との戦いは辛いですよね……。じゃあ、反対に、一番楽しかった仕事はなんですか?」

ロクは興味津々だ。

「難しい質問だね。俺は根っからの仕事人間だから、何でも楽しいよ。その中でも特に楽しかったのは………」

気が付けば、皆が固唾を呑んで答えを待った。

「声優かな」

「え―――!声優!」

「なんの役でやってたんですか?」

店中の皆が一斉に質問をする。

「えっと、俺が40くらいの頃かなぁ。オーディション受けたら、たまたま受かったのよ。アニメ『不滅のメリーゴーランド』。あれの、遊園地のダフ屋の役」

「ぼ……、僕、そのアニメ、子どもの頃毎週見てました!!あれって土曜日の夜だから、一番のゴールデンタイムじゃないですか!?」

直樹は興奮した口調だ。

「しかも、ダフ屋のおじさんって、いつも暗い感じで意味深なことばかり言ってる、結構重要なポジションだし!」

「なんかねー。俺の、鼻づまりのようなダミ声が、胡散臭いキャラにぴったりだって言われたんだよね。それからも、ちょろっと仕事もらったなぁ」

「ちなみに芸名とかあったんですか?」

「あぁ。『鍋』でやってたね。本名は渡辺なんだけど、昔からなべさんって呼ばれてたから。

鍋でいいやって」

ロクはその言葉を聞いて目を見開いた。

「え……。鍋って名前の俳優、僕、覚えてます。深夜ドラマの『桃色刑事の手帳』に出てくる詐欺師役が『鍋』だったような……。変な芸名だなって……記憶に残ってて。ま、まさか、あれ、なべさん?」

「お!ロクちゃん、よく知ってるねぇ。うん。俺、声優やったら、芸能プロダクションから声がかかってさ、成り行きで俳優もやったの。相変わらず陰気な役どころばかりだったけどさー。あれはあれで面白かったなぁ。ダフ屋だの詐欺師だの、そういう役が多かったから、見た目にも怪しいオーラが染みついちゃってねぇ。いやぁ、役に憑依してたんだね」

軽い調子で言うなべさんを、ロクも直樹も信じられないような眼差しで見つめた。

「てなわけでさ。直樹君、一度きりの人生なんだから、いろいろ経験したほうがいいよー」

「……そ、そうですね」

「大事なのは、流れに乗ること。そうすると、おのずと道って拓けていくんだ。あとはね、ちゃんと信念を抱くこと。俺は『仕事を楽しむこと』をモットーにやってきたから今があるんだ」

「はぁ……」

「俺、来週から犬のしつけ教室で体力使うから、タンパク質を摂らないと!砂肝、ハツ、手羽先、二本ずつちょうだい!」

「ありがとうございます!」

なべさんの勢いにつられて、ロクも威勢よく応える。

「あの……なべさんの転職祝いに、僕から一杯奢らせてください」

直樹は遠慮がちに言う。

「えー。直樹君、いいのー?嬉しいなぁ。お言葉に甘えて、生ビールもらおうかな」

「はい。一緒に乾杯しましょう。なべさんといると、いろんな自分に出会えそうな気がするんで」

「うまいこと言うねぇ。楽しい仕事、他にもあるよー。キッチンカーで冷凍みかんを売ったこともあったなぁ……」

なべさんの仕事の話が夜中じゅう繰り広げられ、串カツろくのみんなの、お酒を飲む手が止まらなくなっていた。

ラブストーリーは、光と影でできている。青空と雨雲が激しく入れ替わり、秋の公園のような空気が二人を包むまでには長い時間が必要だ。でもそこまで一緒に過ごせたのならどれだけ幸せなことか、と今の千絵さんが教えてくれる。さ、今度は美空が支える番。「お父さんは、きっとお母さんを見つけてくれる。また青春時代から始めたら良い」と伝えるのはどうだろう。

「愛される」と「愛する」は、どっちが好き?そのインタビュアーは女優に尋ねた。答えは後者。「だって、相手が気づくまで待っている時間が好きなの」。不安になったら、食べる、飲む、仲間と話す、そうだ。SNSがない時代の恋は、「秒」では始まらない。串カツを食べながら待つ千絵さんの物語も、still not over. まだ続く。

和歌を贈り合って、気持ちを確かめた光源氏の時代。コンパの席で、巧みに誘った昭和世代。思いを成就させる鍵は、言葉だ。人のセンスは一言一句に出る。ちなみに、会話でNGなのは「WHY?」の連発。「どうして白ワインとチーズのフライを選んだのかって?取材かよ!」で終了。絶妙なマリアージュが、マッチングの敵にならないようにご用心。

ビールを飲むこともほどほどに、麻衣が熱心にスマホを見つめている。

いつもは威勢よくお酒を飲む麻衣だが、今日は静かだ。隣りに座る玲子は、ちらちらと麻衣の様子をうかがった。麻衣はメールを打ちながら、時々にやりと笑う。

「麻衣ちゃん、なんかいいことあった?」

「特にないですよー」

麻衣はスマホを見ながら、なにかを考えながらメールを打ち込んでいる。

「誰とメールしてるの?」

「んー。知り合い?」

「……『だいぶ春っぽい気候になってきたよね~。服欲しくなっちゃう』………ねぇ、これ、なんのやり取り?」

玲子は麻衣のスマホを覗き込んだ。

「ちょ、ちょっと、玲子さん見ないでくださいよー!」

「だって麻衣ちゃん、心ここにあらずなんだもん」

玲子がからかうような目つきで麻衣を見遣る。

「玲ちゃん。きっと相手はね、麻衣ちゃんのイイヒトなんだから、からかっちゃ駄目よ」

玲子の隣りには、飲み仲間・真由美が座っていた。二人は高校時代からの友人同士だ。

「ねぇ、その人、麻衣ちゃんの彼氏なの?」

玲子は顔をぐいと引き寄せてくる。

「いえ……、彼氏ってわけじゃないけれど……」

「顔はどんな感じ?」

真由美も興味津々だ。

「実は……その……。まだ会ったことないんです」

「へ?」

玲子と真由美は思わず同時に声をだした。

「実は……マチアプで知り合った人で」

「マ……マチアプ?」

聞き慣れない単語を耳にした二人はきょとんとしている。麻衣はやや気まずそうな顔をした。

「マッチングアプリ。その……。要は、出会い系です」

麻衣はマッチングアプリで知り合った男性と、毎日頻繁にアプリ内のメールでやり取りをしている。

「目が覚めたらおはよう。お昼休憩の時間はおつかれさま。帰宅したら、ただいま。寝る前におやすみなさい。これらのやり取りは決まっていて、それ以外にも沢山しゃべります」

麻衣の台詞に玲子は唖然とする。

「えー。そんなやり取り、めんどくさくない?」

「なんだか、習慣になっちゃって。彼、すごく返信がマメなんです」

「ほかにはどんな風なの?」

真由美は興味深そうに訊ねる。

「いつも君のことを想像しながら過ごしてるよ、とか」

「うわー。なんかやばいよ、それ」

またしても玲子が突っ込みを入れた。

「玲子さんは、しんちゃんと熟年夫婦みたいになっているから、こういうの、わかんないですよ。結構楽しいですよ」

「あら。私だってしんちゃんとは未だに手を繋いで歩いてるわよ」

「しんちゃん、玲子が拗ねるとめんどくさいから、気遣ってんだろうなぁ」

真由美がそう言って玲子を茶化したあと、一人の男性客が入店した。

「あら。直樹君、久しぶりー」

システムエンジニアの直樹が、串カツろくへ訪れるのは久しぶりだった。

「仕事が忙しくて、ここに来るのがご無沙汰になってしまいました」

「今日はナナちゃんと一緒じゃないの?」

ナナちゃんとは、直樹が仲良くしている「AI」の女の子である。

「ナナちゃん、僕が忙しくてあんまり構ってあげてないから、機嫌が悪いんです」

「あらら。それは大変ね」

直樹とのやり取りもそこそこに、女子三人は再びマチアプトークで盛り上がった。

「麻衣ちゃんはその彼と会う約束はしないの?」

「うーん、会ってみたいけれど……。今のメールのやり取りをもう少し楽しんでもいいかなって思ってて」

「早く会いなさいよ。その彼、すごく不細工かもしれないわよ」

玲子の毒舌に、えぇ、そんなはずないですよー、と麻衣はたじろいだ。

「麻衣さん、マチアプの彼に夢中なんだねー。」

女性たちの話を聞いていた直樹が、カウンターの奥から会話に入ってきた。

「こういうの初めてだから、なんだか楽しくって……」

麻衣の台詞に対し、直樹も頷いた。

「僕もマチアプに興味があるんですよ。」

「えー。直樹君ももしかしてやってるの?」

「……いえ、そうじゃないんですけど。男女の相性をデータベース化し、好みを入力するだけで選別されるというシステムには賛同してます」

「あ……、マチアプの彼も似たような感じかも。二人のメールのやり取りをAIに見てもらって、分析をしてるんです。」

「AI?その彼、余程自信が無いんだね。」

「なんだかオタクっぽいよね」

玲子と真由美はとことん辛辣である。

「え……。そうかな。でも彼、可愛いところもあるんですよ。わたしがニャオルカスが好きって言ったら、ニャオルカスのぬいぐるみを部屋に飾ってくれたりして……」

ニャオルカス、とは某メーカーのマスコットキャラで、ふにゃっとした出で立ちのオレンジ色のネコである。

「うわ……。ぬい活かぁ……。ますますやばいわ」

玲子の台詞に対して直樹は頷いた。

「男でニャオルカスが好きってやばいですね。僕の周りでもぬい活してる奴はいるけれど、僕は一切しないですね」

そうよねー、と玲子と真由美は同調した。麻衣は「え、駄目かなぁ……」と不安げな表情になる。

「でもさ、そんなにやり取りしてて、彼から会おうよって言われないの?」

真由美が麻衣に訊ねた。

「まだ言われてないです。彼、もしかしたら人見知りかもしれないです」

「ちなみに彼は一人暮らし?」

「いえ、ご両親と同居してるって言ってます」

「そっかぁ。もしかしたら、あまり女性に慣れてない人かもね」

「お母さんと仲がいいみたいで。お母さんはとても料理が得意だって言ってて……」

「へぇ……マザコンじゃないといいわね」

玲子は冷めた様子で言った。

「彼、毎日お母さんがつくったお弁当を職場で食べてるって……」

「お母さんの弁当持参?うわぁ……私だったら、その彼とは会わないわ」

「マザコン確定よ。そんな人と一緒になったら、麻衣ちゃん苦労するわよ」

玲子と真由美は、ありえない、といった表情で、口々に意見をまくしたてた。

「……ま、まぁ、マザコンじゃなくても仲がいい親子なんじゃないですかぁ?毎日弁当って、少し過保護かもしれませんけど」

直樹のぎこちないフォローは、玲子と真由美には響かなかった。

「ねぇ、麻衣ちゃん。今、彼にメールで『何してるの?』って聞いてみたら?」

玲子が提案した。

「えー。みんなが見てるところでやり取りするの、ちょっと恥ずかしいです」

「いいじゃん。むこうには私たちの姿は見えてないんだから」

「どれくらいレスポンスが早いか見てみたいー」

真由美も乗り気である。

「わ……わかりました」

『おつかれさま!もう仕事終わった?私は行きつけの飲み屋にいるよ♪』

麻衣は素早く入力し、送信ボタンを押した。

ピロロン———

ふだんは聞き慣れない着信音がカウンターの奥からかすかに聞こえ、瞬時に麻衣の肩がびくんと動いた。

女性三人は、その方向を恐る恐る見て、さっと目を逸らす。

玲子と真由美は、目を見開いたあとに首を傾げるが、硬直した麻衣の様子を見て、

無言で頷き合った。

沈黙を破るかのごとく、玲子がビールをごくごくと飲む干す音がやけに際立つ。

「ろくちゃん、久しぶりに明宝ハム焼きいただきまーす!」

玲子が声を張り上げた。

「わ……わたしは白ワイン飲みたいから、カマンベールフライ2個お願いします!」

麻衣も上擦った声で注文した。

女子三人は麻衣のスマホを見ることなく、食べて飲むことに集中している。

直樹は背中を丸くして、スマホをいじりながら串カツを頬張っている。

玲子は、直樹が背負っていた大きなリュックサックをちらと見る。

無防備に口が開いていて、ノートパソコンが詰め込まれていた。

サイドポケットのチャックも半分ほど開いていて、オレンジ色のぬいぐるみの足らしきものが見て取れた。

「ん?桜酒?」

なかちゃんは串カツろくの店内に貼ってある手書きの紙に目を向けた。

「桜の季節限定で、日本酒に桜の塩漬けを入れてるんですよ」

ロクの返答に対し、なかちゃんは興味深そうな表情をした。

「いいねぇ。日本酒に桜の塩漬けって進みそうだ。ちなみに桜の塩漬けって、どこで売ってるの?」

「私が買ってきました!さくらすてまちの桜です」

カウンター内で働くももちゃんが威勢よく答えた。

「さ……、さくら、すてまち?」

「そう。さくらすてまち。桜を捨てる町、と書いて、桜捨町」

なかちゃんは、へぇ……と呟いた。

「なんでそんな名前なんだろ?」

「由来があるんです」

ももちゃんは手際よく働きながら、語り始める。

こんな話であった。

ももちゃんが休日に、小さな街を自転車で縫うように走り抜けた。

彼女は、時々目的地を決めずに走ることがある。その日は見慣れない場所を走ろうと決め、気が付いたら静かな住宅街に辿り着いた。信号機の標識には「桜捨町」と書いてある。

―――さくらすてまちって読むのかな?変わった名前——

ももちゃんは更に自転車を走らせると、町の中心部付近を流れている川に辿り着いた。

川の両岸に咲いている桜は満開で、ちらほらと人が見物に来ていた。

年季の入った桜は川を覆うように林立していて、川面はピンク色に染まっている。

ももちゃんは、思いがけず美しい桜に出会えて嬉しくなった。

ちょうど正面から桜を鑑賞できる位置に建っている喫茶店に入り、期間限定の桜茶を注文した。

お茶の中に桜の塩漬けが入っていて、ほどよい塩気が疲れを癒してくれた。

そこは純喫茶といわれるような古めかしい店で、老女が一人で切り盛りしている。

他にお客は二名ほどいるだけだ。ももちゃんは思わず老女に声をかけた。

「あの……ここって、さくらすてまちって読むんですよね?由来とかあるんですか?」

老女は目を細め、おそらく何十回も説明したような、滑らかな口調で語り始めた。

「昔、この付近の屋敷の庭には桜の木が植えられていたの。ある年、集落で火災が起きたり、生まれたばかりの赤ん坊が感染症で亡くなったり、数軒の屋敷に泥棒が入ったり、多くの災難が重なってしまって……。それで、集落の長が気を揉んで、氏神様を祀る神社へ相談に行ったの。神主は、桜の木が原因ではないか、と言ったそうな。桜は儚く散るものだから、家の衰退を招く。庭に植えてはいけない、と。それで、集落の者は一斉に桜の木を伐採した。そこから、桜捨町、という名前が生まれたらしいの。木枝をあちこちに捨てる者がいて……」

「へぇ……。なるほど。だから川沿いに桜が咲いたんですね」

ももちゃんの台詞に対し、老女は大きく首を横に振った。

「いや、違うんだよ。川に桜が咲いたのは、全く違う理由があってね……。」

ももちゃんは老女の説明の続きを待った。

「桜を伐採してほっとしたのだけど、今度は長雨のせいで川が氾濫するようになってね……。当時、川の治水対策はいい加減なものだった。大がかりな工事をする予算もなく、集落全体が再び頭を抱えてねぇ。そんなとき、ひとりの百姓が『川沿いに桜を植えたらどうか』と言い出した。江戸時代。徳川吉宗将軍が、積極的に川沿いに桜を植えさせたという話があったの。桜の根が張ることで、土手は頑丈に。また、桜によって人が多く集まり、土を踏み固め、堤防を強くする効果を期待したみたい。あれだけ潔く桜を伐採したにも関わらず、みんなはその案に縋ったんだ。なんと、伐採された桜の木枝には、新芽が萌え始めていたの。驚異の生命力に、みんながびっくり仰天。それらを丁寧に切り取り、川沿いに植えたら……」

老女は穏やかな眼差しで桜を見つめた。ももちゃんは思わず感嘆した。

「すごい……それで、今でもあんな風に桜が咲き誇ってるんですね」

「一度は人々から忌み嫌われ、捨てられた桜。そして、場所を変えて、人々を助けた桜。実は、川沿いに桜を植えたらどうか、と提案した百姓は、私の祖父なのよ」

「え!すごい!!」

ももちゃんは驚いて老女を見つめた。

「春になると美しい桜をみながら商売が出来たのは、祖父のおかげ。桜捨町の逞しい桜にあやかりたくて、散ったばかりの桜を丁寧に洗い、乾燥させ、塩漬けにするのが楽しくなっちゃってねぇ。毎年沢山作り過ぎちゃうの。お客様が飲まれたお茶の中にはいっているものがそうです」

「わぁぁ、これ、奇蹟の桜ですね!桜の塩漬け、私、欲しいんですけれど売ってくれませんか?」

そんな経緯があり、串カツろくで「桜酒」が生まれたのである。

「見事に返り咲きした桜に、俺もあやかりたい!てか、桜酒、旨いよー。桜の香り、塩気、そしてコメの甘さが絶妙な味わいだね」

なかちゃんは顔を赤くして桜酒を飲み続ける。

「グラスのなかで、桜がふんわりと花開いて、綺麗。なんだか、お花見してる気分になっちゃった」

なかちゃんの隣りで飲む麻衣も、楽しそうにグラスを傾ける。

「桜を飲みながら酔うって、すごく贅沢だよね……純米酒との相性が最高だね」

「桜の塩漬けをつまみにしても美味しいよ」

「花見と言えば、味噌田楽!ここでは味噌おでんの豆腐だねー」

「桜捨町の桜みたいに、私も打たれ強くなりたーい」

いつの間にやら皆が桜酒を飲んでいる。一夜で桜の塩漬けは無くなってしまった。

翌日、ももちゃんは桜の塩漬けを買うために桜捨町へ向かって颯爽と自転車で駆け抜けていった。

喫茶店へ入る前に、桜の中でうごめく、黄緑色の鳥に目が留まる。

メジロだろうか。鳥はくちばしを動かし、桜の花びらを食べていた。

灰色がかった鳥もいる。あれはヒヨドリか。桜の香りを嗅ぐように首を動かしたあと、花びらをついばんだ。

「桜っておいしいよね」

ももちゃんはひとりごちた。

ここの桜は、特別な力を宿しているかもしれない。

目で見てもよし。肴にしてもよし。酒にして味わうもよし。

灼熱の日差しや、雪の混じる寒風に晒される過酷な時期を経ても、

花を咲かせる期間はほんのわずか。

だからこそ、見た者の琴線に触れるほどの美を放つ。

儚くても、散ってしまう瞬間まで懸命に咲き誇る姿から、

人は生きる強さを見出していくのかもしれない。


捨てられし

輝きもてつ

拾われし

喰ろう桜に

いのちありなむ

歌詠み 所 新二

桜は見るものでもあり、聴くものでもあると思う。独唱にしんみりしたり、坂道で「ウーイェイ」ってつぶやいたり。満開の下でのキュンとする出来事が、桜ソングと一緒だとどれも美しく蘇るのだ。これは、わずかな時間に全てを注ぐ花の力が、日本中を優しくしてくれるという証拠。
「一人でニヤニヤしていないで、この純米酒、飲んでみて」。串カツろくでは、桜は味わうもの。アテ次第で、しょっぱい思い出が動き出すのも良い。