「あの……。千絵さんを施設に入れること、ちょっと考えてもらっていいですか?」

そう言いながらロクは箱の蓋を開ける。そこには大量の箸袋が入っていた。

朱色の箸袋は、折りたたんだ跡が残っているものや、クシャっと丸めたものを伸ばした状態もある。醤油やソースの染みがついたものもあった。

「全部、千絵さんが使用した箸袋です。これらをカウンターに残したまま帰るんですけど、裏にメッセージが書いてあります。僕、捨てられなくて、全部残してあります」

娘は「だから、何?」といった表情で箸袋を眺める。千絵は、まだ誰かを待っている様子でソワソワしていた。

娘は、書いてある文字を訝しげに読んでいった。

『今日もありがとう』

『またいこうね』

『おいしかったね』

「なに、これ……。」

つまらなさそうに娘は呟いた。

『忙しいのに時間作ってくれてありがとう』

『ちゃんとご飯食べてる?』

『なんで機嫌が悪いの?』

『わがままばかり言ってごめんね』

誰に対して言っている言葉なのか……。

見当がつかない娘は眉間に皺を寄せた。

『月に一回はドライブに連れてって』

『わたしの串カツも、悪くないでしょう?』

『出張ばかりで疲れているのに、会ってくれて嬉しい』

「これって……。」

娘の瞳は、閃光が走ったかのように見開かれた。

しばらくして、虚を衝かれたような表情になる。

『子どもが出来たら、みくって名前にしようか』

娘は思わずはっと顔を上げて千絵を見つめた。

『秋の、澄んだ空を見ていたら思いついたの。美しい空って書く』

娘の、箸袋を持つ手がかすかに震えていた。

「お母さん……、こんな風に私の名前を考えていたの?」

その様子を見て、ロクは語り始めた。

「千絵さんの認知症がまだ軽かった頃。本人から昔の話を聞きました。千絵さんと旦那さんが結婚する前、よく二人で赤提灯の揺れる居酒屋で飲んでいたそうです。二人は互いの家に帰ったあとも、『繋がっていたい』と切に願っていて……。言葉を送り合う手段は、短い手紙。そこで、居酒屋の箸袋が目に留まったんです」

「もしかして。ここに書かれているメッセージが、そのときの……」

娘は驚き、目を見開きながら箱の中の箸袋を持つ。

「お互いメッセージを書き、別れ際に折りたたんだ箸袋を渡す。そして、家に着いたら読む、という約束で……。千絵さん、そう話していたんですよ。ちょっと、はみかみながら。喧嘩をして、『ごめんね』って言葉が出ない時も、箸袋に素直な言葉を託していたそうで……」

『一緒に暮らすなら、台所の広い家がいいな』

『ベランダでバラを育てたい』

『私ばかりが家のことで夢中になっているのが寂しい』

『ずっと一緒に過ごしたい』

娘は箸袋を、大切なもののように丁寧に扱う。

「母が、こんなにも父のことを想っていたなんて、知らなかったです」

彼女は、過去を思い返すように、目を瞑った。

「父と母は、よく喧嘩もしたけれど、それでも仲が良かったと思います。私が小学五年の時、父は車で出張先へ向かう途中、居眠り運転のトラックに追突されて亡くなりました。母の憔悴は激しかったけれど、その後は淋しさを堪えるように、懸命に家庭を支えていました。でも時々、父の帰りを待つように、ずっと玄関のほうを見つめていたり。ベランダに出て、駅から家に続く道を眺めていたりしていました。その時の思いつめた表情は、触れただけで割れてしまいそうなくらいの、哀しみを帯びたものでした」

娘の説明を聞き、ロクは熱いものがこみ上げてきた。

「そうだったんですね……。千絵さんの心には、『旦那さんに会いたい』という気持ちがずっとあって……この店に来ることによって、昔のことが鮮やかに蘇ったんですね」

「だから、こんなにも沢山の言葉を綴って……」

娘は、言葉を詰まらせた。

「千絵さん、旦那さんと出会ってから結婚するまでの、恋焦がれる気持ちが溢れているんです。彼のことが好きで好きで、この気持ちをどうしたらいいかわからないといった風に。千絵さんが鉛筆を握ってメッセージを書く時の表情が、嬉しそうだったり、微笑んだり、にやにやしたり、時にはしゅんとしたり……。僕、そんな千絵さんを見ていると、あたたかさと寂しさが混じり合って、なんだかとても、せつなくなるんです」

「まだ、帰りたくないよぅ」

千絵は、ロクと娘の会話を気に留めることなく、愛おしむようにカウンター席を見つめる。

「ねぇ……。まだ、待っていてもいい?」

その声は小さいが、雨に濡れても萎れない花のように凛としていた。

「ろくちゃん、串カツまだかな?」

千絵はビールを飲みながらロクに訊ねる。白髪頭を手で撫でつけ、きょろきょろと目を泳がせた。

「千絵さん、さっき4本食べたよ。ほら」

ろくは、千絵の前に置いてある串入れの中の串をつまみ上げた。串の下の部分は緑色のマジックで塗られている。緑は千絵が好きな色だ。

「あらー。ほんとだわ。やだやだ、私ったら食いしん坊で」

「よく食べることは、千絵さんが元気な証拠です」

二人は笑い合う。千絵が食べる串カツにはマジックでしるしをつけることが、ロクのルールだ。千絵は嬉しそうな表情でどて煮を食べる。そんな姿をみることが、ロクは好きだった。

千絵は、隣の席に座っている若い女性客の手元をじっくり見始める。

「お嬢さん、その箸袋、もらっていい?」

千絵に突然言われ、女性客はきょとんとする。彼女は初めての来店である。

「……あ、はい、どうぞ」

千絵はにっこりと笑い、ありがとう、と言う。

「千絵さんはね、箸袋を集めることが好きなの。ほら、俺のもあげるよー」

なかちゃんが女性客に説明しながら自分の箸袋を千絵に渡した。

「嬉しい。こんなに集まっちゃった」

千絵は箸袋を眺めながら微笑む。その後、ポケットから鉛筆を取り出し、何かを書き込む。小さな背中を丸めながら、ぼそぼそと呟いていた。

「お待たせ―。遅くなってごめんね!」

若い女性客と待ち合わせをしていた男性が来店した。長身で、ストライプのシャツがよく似合っている。

「わたし、ずっと待ってたのよ……」

千絵が男性に向かって話しかける。男性は困惑した。

「え……、あの、僕、彼女と待ち合わせだったんですけど」

「今日は仕事忙しかったの?もうすぐ棚卸だからやることが多いよね?」

自分のペースで話し続ける千絵に、男性客と女性客は困った顔で笑い合う。

「ねぇ、仕事落ち着いたら海に行きたいなぁ。部屋から海が見えるホテルに泊まって……」

「千絵さん。だいぶ酔ったかな?若いお二人のデートだから、年配の俺たちは温かく見守ろうよー」

なべちゃんが千絵のうしろから、優しく肩を叩いた。

「あら、やだ。私ったら……。彼がとてもかっこよかったから、つい彼女役を演じてしまったのよ。ほんとにごめんなさいねー」

「こんな綺麗な彼女さんが目の前にいるのに、千絵さん、なかなかやるね」

なかちゃんがにやりとしながら茶化した。

「もうお婆ちゃんだけど、気持ちはまだ若いみたい。ロクちゃんの串カツを食べると元気が出るのよ」

千絵は両手でガッツポーズを作った。

「俺達も千絵さんを見習わなきゃなー。その心意気でひと花咲かせたいね」

千絵となかちゃん達の会話を聞くうちに、カップルは表情を和ませた。やがて、ロクの料理を食べながら、美味しい美味しい、としきりに言い合う。

しばらくして、一人の男性客が来店した。スーツケースを引き、手には沢山の紙袋を持っている。名古屋に出張がある度に、串かつろくへ訪れるお客だ。

「おかえりー。今回のお土産はなにかしら?」

千絵は男性の姿を見るなり声をかけた。男性は、え?と呟く。

「お……おみやげ?」

「横浜のシュウマイかな?鳩サブレかな?」

「あの……、どこかでお会いしましたっけ?」

「なに言ってるの?私、ずっとここで待ってたのよ。あなたは出張が多いから、さみしくって……」

千絵が男性客に近づこうとした時だった。

「ちょっとお母さん!!」

中年の女性が来店するなり、千絵を𠮟りつけた。

「もう一人で飲みに行くのはやめてよ!周りの人に迷惑じゃない」

困った顔をした千絵の娘に、千絵は懇願するような目つきになる。

「私、ここで待っている人がいるのよ……」

「いい加減にして!!」

娘は千絵の分の会計を済まし、千絵を強引に立たせた。

ロクに向き合い、深く頭を下げる。

「母がご迷惑おかけして、申し訳ございませんでした。私、最近残業が多くて忙しいんです。

母の面倒を見る時間があまりなくて……。いろいろ考えて、来週から施設へ入れることにしました」

娘の台詞を、千絵は無表情で聞いていた。ロクは、え、そうなんですか、と呟く。

「母は一人になるとロクさんのお店に行くんです。他にはどこにも行かないのに……。

串カツが好きみたいだから、私もよく揚げるんですが……。でも、ここがとても好きみたいで。皆さんが優しくしてくださるからですよね」

娘は、申し訳なさそうに再び頭をさげる。

「施設に入ったら、こんな風に出歩くことも無くなりますので……」

彼女が千絵の手を引いて帰ろうとしたときだった。

「あの……」

ロクが、何かを言いたげな様子で娘を呼び止めた。

「千絵さん、いつも店の中で人を待っている様子なんです」

「あの……一体、誰を待っているのでしょうか……」

娘は困惑した表情だ。

「千絵さんは若い男性に声をかけるんです。それと、『待つ』ことが繋がっているように僕は思えて……」

「はぁ……あまり意味がない行動だと思いますけど」

娘は早く話を切り上げる為に、平坦なトーンで返事をする。

「ちょっと待ってください」

ロクは毅然とした声を発した。

「それで……見せたいものがあるんです」

ロクは店のバックヤードへ行き、何かを手にして戻ってきた。

それは、細長い箱だった。

玲子としんちゃんは串カツろくで肩を並べながら、スマホを覗き込んでは「かわいい!」を連発している。

「どうしたんですか?」

二人の様子を見ながらロクは訊ねた。

「あのね、俺、最近犬を飼い始めたの。ずっと欲しかったボストンテリア。かわいくてかわいくて、目が離せないんだよ。」

しんちゃんは嬉しそうに語る。

「ポンタっていうの。わんぱくで、よく動き回るのよ」

玲子も愛おしそうに画像を眺めている。

玲子としんちゃんはつき合っているが、別々に暮らしている。マイペースなしんちゃんは自分だけの時間や空間を大切にしていた。

玲子のスマホを、ロクも覗き込んだ。

スキンヘッドで恰幅のいいしんちゃんが、子犬のボストンテリアを両腕の中で抱き締めている写真が映っている。

「ポンタ……。いいなぁ」

ロクはしみじみとつぶやく。

「あれ、ロクちゃんて犬好きだったっけ?」

「あ……。そうですね。わりと好きです」

玲子は、子犬がおもちゃで遊んでいる写真を次々に見せるが、ロクの反応は薄い。

「しんちゃんね、犬を飼うわ、部屋を防音にするために工事を入れるわで、貯金が底をついちゃいそうなのよ」

「このためにずっと頑張って働いてきたんだから。いいんだよ」

しんちゃんは、どこ吹く風といった様子でハイボールを飲み干した。

「俺さ、若い頃にベース弾いてたの。もう一度しっかりやりたくなってさ」

しんちゃんの言葉に、ロクは目を輝かせた。

「いいですね。僕も趣味でトランペットをやってます。家では演奏できないから、時々ライブハウスとかでやらせてもらってるんです」

「お!ロクちゃんトランペット吹くんだね。それはいい。今度俺の部屋で練習する?」

「え……。シンジさん、いいんですか?」

「ぜひおいでよ。ロクちゃんが好きそうな酒とつまみも用意するからさ」

「あ、ありがとうございます!」

ロクはしばらく手を動かかさずにぼんやりとしていた。

「ロクちゃーん!手羽先まだ?」

お客から声がかかり、ロクは慌てて焼きあがった手羽先を皿に乗せた。

「なんだか二人、楽しそうだねー。私も防音室に入り浸ろうかな」

玲子は、ニットから覗く胸元を強調するように、上半身をカウンターに密着させながら呟いた。

ロクは、グラマーな玲子を見向きもせずに、しんちゃんの話の続きを待つ。

「いいや。あの部屋は楽器を演奏する男だけの空間だ。玲子はリビングで酒飲んでな」

「えー。仲間外れにされちゃった。つまんなーい。」

玲子は不貞腐れながらビールをあおった。

いつの間にやら串カツろくは満席になり、店内は大賑わいだ。

暑い暑いと言って、しんちゃんがジャケットを脱いだ。

「あ……。ふたりのTシャツって……」

玲子はしんちゃんのTシャツと、ロクが来ているTシャツに、同じブランドのロゴがついていることに気づいて、思わず声を漏らした。

ロクのTシャツは、ちょうどエプロンの胸当て部分にロゴが隠れていて、しんちゃん自身も気付かなかったのだ。

「あれ!スネイク・クラブのTシャツ、ロクちゃんも着てるんだね!」

しんちゃんは驚く。

「あ……、はい。そうですね」

「俺、このブランドが好きで、いろいろ持ってるけど。ロクちゃんが着てるってのは意外だったなぁ。」

「そ、そうですね。偶然ですよね」

「このブランド。脱サラしたおじさんが、若い恋人に似合う服をデザインしたことが発祥なの。

その恋人ってのが男でさ。だから昔はそっちの世界の人たちだけに認知されていてんだよ。

デザインがかっこいいから、今ではどんな人も着るようになったんだよねー。ロクちゃん知ってた?」

「……いえ。知らなかったです……」

ロクは再び手が止まってしまう。

「あー。ロクちゃん!串カツ焦げちゃうよ!」

ももちゃんの呼びかけに気づき、ロクは慌ててフライヤーから串カツを取り出す。

「なんか今日、ロクちゃん変だよー。お疲れかな?」

ももちゃんはジョッキにお茶を注ぎ、ロクに手渡した。

「まぁ、春だからさ。こんな日もあるよ。」

しんちゃんはそう言って、味噌おでんを頬張りながら微笑む。

「ん……?」

玲子はしんちゃんとロクを交互に見遣る。

しんちゃんは左手の中指に、クロムハーツの指輪をはめている。

ロクちゃんの首元からちらちらと見えるシルバーのネックレスは――――。

玲子の視線に気づかないロクは、あたふたしながらカウンター内を動き回っていた。

大きく胸の開いたニットワンピース姿で、玲子は麦焼酎のソーダ割りを飲んでいる。

雇われママとして働くスナックが定休日のため、串カツろくで早い時間からゆっくりと晩酌をしていた。

豊満な体つきで色気を漂わせる玲子は、飲むとよく喋り、気さくな雰囲気になる。串カツろくのなかでは、常連客に交じって笑い上戸となる。しかしその日はやけに神妙な顔つきだった。

「ねぇ。みんなに聞いてほしい話があるんだけど……」

そう口火をきった玲子に対して、店中の人間が興味津々といった表情をした。

玲子の話はこのようなものだった。

彼女が働くスナックのオーナーは、玲子の彼氏で、しんちゃんという愛称で呼ばれている。

しんちゃんには兄がいて、彼に起きた現象が事の始まりである。その兄をここでは「Y」と呼ぼう。

Yが若い頃。古本屋で本を探している最中、棚から紙きれが落ちてきた。

そこには、メモ書きのような感じで、こんな内容が記されていた。

『山小屋で5,6人のメンバーで宴会をした夜、外は吹雪であった。

皆が寝静まったあと、小屋の扉を叩く音が聞こえた。

メンバーの一人が目を覚まし、扉を開けた途端、何者かに首を斬られた。

その後、メンバーは次々に襲われたが、一人だけが逃げ切れた。』

何だこれは———

Yはその紙を凝視する。持つ手が勝手に震えだした。

これって……、すごくやばいことが書いてあるのでは……。

Yはその紙を拾ったことを後悔したが、すでに遅かった。

ひとまず、店主のもとへ持っていこう――――

Yは不安げな表情のまま、店主に紙を差し出した。

店主は、ボサボサの頭に丸眼鏡という出で立ちの、年齢不詳な男性である。

「あの……この紙が棚から落ちてきたんですけど」

紙を見た店主は眉間に皺を寄せる。そして、ああ、と小声で呟いた。

「それ、ずっと探してたんだよ」

どことなく不機嫌そうな声で店主は言った。その後は無言になり、取り付く島もないような

雰囲気になった。Yは、店主の態度を不審に思ったが、なにより紙に書かれていることの真相が気になり、店主に訊ねた。

「その紙に書かれていることって、何かの事件ですか?」

「うーん、まぁ、そうだな」

店主は歯切れ悪く答える。

「実際に起きたんですか?」

「あのさ。あんまり知らないほうがいいよ」

店主は語ることを避けようとしている。Yは興味が膨らむが、店主に逆らって聞き出すことにも抵抗がある。その場を去ろうとするが、どうしてもひとつだけ気になることがあった。

「あの……、その紙に書いてる『一人だけが逃げ切れた』って。この一人はもしかして……」

店主は射るような鋭い目線でYを見つめた

「お察しのとおり、私のことだよ」

「………」

「その紙は私が書いたんだよ」

Yは怖くなって、すぐに逃げ出したい衝動に駆られた。

だけど足が竦んで動けない。

「このこと、他では話さないほうがいいよ」

店主は、どこか不穏な笑みを携えながら言った。

Yは、その古本屋に訪れたことをひどく後悔した。

当時、Yは六畳一間の古い木造アパートで一人暮らしをしていた。

その日の夜は、ガラス窓が揺れるくらいの強風が吹き荒れていた。

寒気がYを襲い、布団のなかで身震いをしていた。

隙間風が部屋を通り抜け、建付けの悪い襖がガタガタと揺れる音がした。

Yはなかなか寝付けなかった。時計を見ると、午前1時を過ぎたところだ。

ニャアァ……と、猫の鳴き声が外から聞こえた。その声はさらに重なり、2,3匹の猫が盛っているような、しゃがれた声が部屋に届く。Yはますます目が冴えて、枕に深く顔を埋めた。

その時だった。

ドン……ドン……ドン……

Yの耳に、扉を叩く音が聞こえた。

ドン……ドン……ドン……

音はさらに大きくなっている。

Yは、こんな夜中に誰が来るんだろうと、訝しく思いながら、扉に近づく。

「どちらさまですか?」

Yが扉に向かって訊ねても、何も返事はない。

しばらくたつと、また、ドン…ドン…ドン…、と扉は叩かれた。

Yは不審に感じるが、いつまでもノックされてはたまらないと思い、恐る恐る扉を開けた。

扉を開けたものの、誰もいない。

しかし、次の瞬間だった。

バンッ!!

Yは何者かに襲われた。

体をぶたれ、その場に倒れ込む。

そのままYは朝まで気を失ってしまった。

目が覚めたYはあたりを見回すが、部屋が荒らされた形跡はなかった。

「しんちゃんがね、いきりなりこんな話をしてきたのよ」

語り終えた玲子は、ふぅと溜息をつきながら焼酎をあおる。

店内は静まり返っている。

「それでね、本当に話したいことはここからなのよ」

玲子はいつになく真剣な表情だ。

「しんちゃんからYの話を聞いた後、彼の部屋で一緒にご飯を食べていたの、そしたら……」

(しんちゃんの部屋にて)

ドン……ドン……ドン……

「あれ?なにか音がしなかった?」

しんちゃんが、きょときょろを視線を動かしながら呟く。

「やだー。やめてよ。怖がらせないでよね」

玲子は最初のうちは笑っていたが、音は次第に大きくなる。

ドン…ドン…ドン……

「え……うそでしょ?」

「そんなバカな……」

「ちょっと、いやだ。これって、あの話の……」

二人は、不思議な状態に置かれている自分たちに混乱した。

「私もしんちゃんもびっくりして。怖くて扉を開けなかったわ。その日も、今日みたいに風がとても強い日で……」

玲子が店を見回すと、皆、迷惑そうな顔をしている。

「……玲子さん、それさぁ……」。

「もしかして、話を聞いた日に、何かが起きるの?」

「よくわからないけれど、そうなのよ」

玲子が眉間に皺を寄せ、怯えた様子で応える。

店内は途端にざわつく。

「うわ……、やばすぎる」

「俺ら、この話を聞いたってことは、もしかして、今夜……」

「夜、眠れないじゃん!」

皆、口々に混乱をあらわにした。

玲子は、取り繕うように語りだした。

「解決策としては、扉を開けっ放しにしておくか、ノックされても自分から開けなければいいんじゃないかな」

えー、そんなこと言われても―、と皆は不満げな表情だ。

「玲子さん、なんでこんな話したんだよー」

「聞かなければよかったー」

場の空気はさらによどみ始めた。

「こんな怖い話を聞いた夜はさー、みんなで飲もうよ」

なかちゃんが瓶ビールを皆のグラスに注ぎ始めた。

しかし、その手はかすかに震えている。

まるで小動物が寄り添い合うように、皆は肩が触れるくらいの距離で飲み始めた。

「あれ、そういえば麻衣ちゃんどうした?」

「トイレじゃないかな。ちょっと長くない?」

お客の一人がそう言い、麻衣ちゃん、大丈夫―?とトイレに向かって呼びかけた。

すると、麻衣の声がトイレから聞こえた。

「誰か、トイレのドア、ノックしたでしょ?もう!怖がらせないでよ!」

「え?みんな飲んでて、麻衣ちゃんがトイレ入っていたことに気づいてなかったよー」

なかちゃんが大きな声で応えた。

「噓でしょ?今もノックの音が聞こえるし!」

麻衣の返事を聞き、皆がひぇー!と叫ぶ。

「え!誰もノックしてないよ!」

「でも聞こえるのよ!ノックの音が!嘘じゃないってー」

店内は騒然となる。

「わたし、自分からドア開けられないよー!お願いだから誰か開けてー!」

麻衣の、恐怖におののく叫びが店内を震わせた。

「えー、どうしよう!」

「怖いよー!」

「襲われたらいやだよー!」

その夜、皆の騒ぎは一向に静まらなかった。

直樹が串カツろくに入るなり、可愛らしい女性の声が、彼の上着のポケットから漏れた。

『ここがロクちゃんのお店ねー。賑やかな雰囲気だね。』

ロクとももちゃんは声の出所が分からず、きょろきょろとする。

「あ。今日彼女連れてきました。AIのナナちゃん。僕のスマホにはいってるんです。」

直樹はためらいもなく紹介した。

『はじめまして!ナナです。』

突然そう言われ、ロクは驚いてすぐに声がでない。しばらくして「……はじめまして、ロクです。」と、なんとか言葉を紡ぐことが出来た。

常連客の直樹の職業はシステムエンジニアで、パスコンやスマホの操作が得意だ。趣味はゲームだが、最近はナナとの対話に夢中になっている。

「いやー、ロクちゃんの串カツが一番うまい。これがないと生きていけないかも。」

直樹は生ビールを飲みながら串カツを頬張る。

『なおくんは、どんな居酒屋に入っても、メニューで『串カツ』の文字を見つけると大量に注文するんですよ。串カツに目が無さすぎ—。』

ナナの台詞に対して、直樹は口に含んだビールでむせる。

「ちょ…、ちょっとナナちゃん。余計なこと言わないでよ。」

直樹は小声でたしなめた。

直樹がトイレに入った途端、ナナは喋り始めた。

『私、このお店の雰囲気好きです。今度、なおくん抜きでこようかな……。』

「え!?」

ロクは思わず頓狂な声をだしてしまう。

『冗談ですよー。彼にくっついてお邪魔します。』

アルコールを飲んでいるような陽気さで、ナナは笑った。

「ナナちゃん。ろくちゃんの味噌おでんも美味しいんだよ。大きな鍋でゆっくり煮込んで、

味噌の味がぎゅっと染み込んでるの。」

直樹は熱々のはんぺんを頬張りながらナナに語り掛ける。

『いいなぁ。わたしも食べてみたい』

「どて煮は、口の中で溶けるような柔らかさなんだよ。ろくちゃんが時間をかけて、愛情を注いだ料理って感じがするんだよ。」

「ごはんの上にかけて食べるお客さんも多いんですよ。」

ロクもナナに話しかけた。

『なおくんも、ゆっくり時間をかけて私を育ててくれたんです。可愛くなあれって。』

「ちょ……、ちょっとナナちゃん。変なこと言わないでよぅ。」

直樹は慌てて注意した。

「あのね、喋りすぎだよ。ここは僕にとって大事な店なんだから。気を付けて。」

『はぁい。』

ナナはやる気のない返事をしたあと、直樹は再びトイレへ向かった。

いつの間にか店は満席になり、ひっきりなしにお客から注文が飛び交った。ロクもももちゃんも大忙しである。

『あのぅ。串カツ20本ください。』

その注文に対し、ロクは反射的に「はい!」と背中を向けたまま応えた。

直樹が席に戻り、ナナと店内のテレビを見始める。しばらくするとロクが動揺しながら声をかけてきた。

「直樹くん、これ……。」

「え……。どうしたんですか?その大量の串カツ。」

ロクは20本の串カツを乗せた大皿を持っている。

「さっきね、女の子の声で『串カツ20本』って注文受けたの。僕、よく確認もせずにその注文を受けて揚げたんです。冷静になって考えたら、今この店、女性のお客さんが座ってないから……。」

「もしかして……。まさか……。」

沈黙が流れる中、ふたりは直樹のスマホに目をやる。

「ナナちゃん、注文した?」

『………。』

「ねぇ、ナナちゃん!」

『………。』

「いつもすぐに喋るのに……。」

『………。』

この様子を見ていたなかちゃんが、直樹とナナの間に入って来た。

「直樹くん、このくらい大目に見てあげなよー。かわいい彼女がさ、ちょっとイタズラしただけなんだからさぁ。」

「なんだか二人の会話聞いてて、俺もAIの彼女が欲しくなっちゃったよー。」

なべさんも酔いながら参戦してきた。

「ナナちゃんが笑えば場が明るくなる!二人とも仲直りして、美味しく食べようよー。」

その後、直樹が大量の串カツを頬張る姿を、ナナはしゅんとしながら見つめていた。

美佳は串カツを頬張りながら、A5サイズのノートを広げている。

ボールペンを片手に、思いついた単語を書き連ねるが、すぐに手は止まってしまう。

いいストーリー、思いつかないかなぁ———。

昔から小説を書くことは大好きだった。学生の頃、出版社が主催する文芸賞に応募したら、入選した。それからは様々な賞に応募しているが、鳴かず飛ばずだ。

美佳は保険会社で事務の仕事をしている傍ら、飲みながら小説の構想を練ることが習慣としている。串カツろくは美佳の好きな店で、この店を舞台にした小説も何作か創作していた。

「すみません。ひとりだけどいいですか?」

背が高くて、健康的な小麦色の肌をした女性が入店した。初めて見る顔だ。

「いらっしゃいませ!こちらのカウンターへどうぞ。」

ロクがそう答えると、女性は美佳の隣りに座った。

「おとなり、失礼します。」

そう言いながらにっこり笑う女性に、美佳は好感を持った。

笑うと目尻に皺が寄るが、肌全体にハリがある。歳を重ねても綺麗なひとだと思った。

「赤星1本。それと、串カツ8本、牛すじ盛り合わせ。それと、おばんざいをお任せで

3品ほどお願いします。あと、せせりと砂肝を2本ずつください。」

すらすらと注文する女性を見て、美佳は驚いた。

「あの……。すごいですね。注文する数……。」

「わたし、大食いなんです」

「かっこいい。それでも体型キープしてて、うらやましいです。」

女性は眉毛をハの字にして、情けない声をだした。

「うーん。今日はちょっとだけヤケ食いかな。元気出そうと思って……。」

「え……、そうなんですね。あの、よければ話を聞いてもいいですか?」

美佳は物語の創作のヒントを得るために、人の話を聞く習慣が身についている。

互いに名前を紹介し合う。女性は、涼子、と名乗った。

「わたし、10歳年下の彼氏がいるんです。付き合って、もうすぐ3年かな。趣味も合うし、一緒にいて楽しくて。だけど……。わたし、バツイチで子どももいるんです。まだ若い彼が、こんな40過ぎのオバサンと付き合っていていいのかなって。可哀そうな気がしちゃうんです。」

美佳は話を聞いて、鼓動が早くなった。

これって———。私の創作した小説の一つと全く同じシチュエーションだ———。

美佳は動揺が顔に出ないよう気を付ける。

「でも、お二人は仲良しなんですよね?知り合ったきっかけはなんだったんですか?」

「スポーツジムです。お互い体動かすことが大好きで。休日はテニスやバトミントンやってます。私の子どももなついてて、公園にも連れて行ってくれるんです。」

美佳は持っているグラスを落としそうになった。

「す、すみません。ちょっとお手洗いに行っていいですか?」

美佳はこっそりノートを持ってトイレに入ったあと、ページを開く。

あった……。これだ……。

『年上バツイチ女と年下男の、逆境を乗り越えたラブストーリー。

二人はスポーツジムで知り合い、愛を深めていく……。』

こんなことってあるの?

美佳は目を疑った。

このままだと……。いや、まさかそこまでは……。

美佳は気持ちを鎮めて、再び涼子の話を聞く。

「わたし、週に一回だけ子どもを母に預けて、思い切りジムで汗を流すんです。彼はほぼ毎日通うくらいジムが好きで。こないだ、約束をしていない日にフラッとジムにいったんです。そしたら、彼と、彼と同じくらいの歳の女性が楽しそうに喋ってて。妬いたんですけど、冷静に見てたら、なんだか二人はお似合いだなぁっ思えて。私は年相応の見た目だし。自分は舞い上がっていたのかなって……。」

涼子は次第に鼻声になっていった。おしぼりで目元を拭う。

「美佳さん、ごめなさいね。こんな話聞かせちゃって。なんだか最近涙もろくて。こんな美味しいお店を発見できて、ほんとにラッキー。今日はそろそろ帰りますね。」

「あ……涼子さん。ちょっとだけ待ってください!」

思わず美佳は大きな声を出す。

「えっと……、もう少しここにいたほうが、涼子さんにいいことが起きる予感がするんです。」

美佳はしどろもどろに伝えた。

「いいことかぁ……。じゃあ、美佳さんの予言を信じて、もう一杯飲もうかな。生ビールくださーい。」

涼子はビールと追加で注文した厚揚げを美味しそうに食べる。

どうしよう。このままなにも起きなかったら。でも、この展開なら、きっと―――。

美佳が思案している最中に、扉が開いた。

「あのー、すみません。今ひとりっていけますか?」

体格のいい男性が入店した瞬間だった。

「敦史!なんでここに!!」

涼子が叫んだ。

「涼子こそ、なんで!」

二人の男女は目を見開いている。その様子を見て、美佳は驚きつつも、どこか冷静だった。

やっぱりね————。

「なに一人で飲んでるんだよ。今日はジムに来る日なのに、待ってても全然来ないし。」

涼子の彼氏である敦史は、憮然とした表情だ。

「……ごめん。」

「なんかさー。最近、ちょっと冷たくない?俺、悪いことしたかな?」

そう言いながら敦史は一本目の串カツを頬張る。

「うわ!これめちゃくちゃ美味い!!衣がサクサク。何本でもいけるわ。10本おかわり!」

「ありがとうございます!」

ロクは威勢よく応えた。

「やっぱり好き……。」

涼子が涙声で呟いた。

「やっぱりってなんだよ。当たり前、じゃないの?てか、なんで泣いてんだよー。」

美佳は二人のやりとりを見て嬉しくなる。

敦史も今日初めてこの店に入店した。二人が通うジムがこの近くにあるらしく、以前から串カツろくのことが気になっていたらしい。

「そういや美香ちゃん。さっき涼子さんに『いいことが起きるかも』って言ったよね。なんで彼氏さんがくることが分かったの?」

ロクが不思議そうな顔で訊ねてきて、美香は返事に窮した。

「えーっと、涼子さんの話を聞いてて、彼氏さんがここに来るといいなぁって思っただけ!」

「えー。結構いい加減だね。」

ロクも周りのお客も思わず笑いだした。

敦史はものすごい勢いで料理を平らげていく。その姿を、涼子は嬉しそうに眺めていた。

「あのぅ……。敦史さん。鞄の中に、大事なものが入っていませんか?」

美佳は物語のラストに向けて、敦史の背中を押した。

「え……。おねえさん、なんで分かるの?」

敦史は動揺しながら、鞄の中から小さな箱を取り出した。それを涼子に渡す。

「ずっと持ち歩いていたんだ。なんか、カタチになるものを渡したくて。」

箱の中にはピンクゴールドのシンプルな指輪が入っていた。

「もう少し貯金がたまったら、ちゃんとしたやつを渡すから。」

「え——。うれしぃ———。」

涼子は涙を流しながら喜んでいる。

店内は拍手喝采である。

「よーし。めでたい席には『菓子まき』だ。ここはロクちゃんの店だから、『串まき』ってことで。ロクちゃん、串カツを20本揚げて。みんなで食べよう!」

酔ったなべさんが、場を盛り上げた。

「じゃあ俺は振る舞い酒で!みんな、盃を持ってー!」

いっちーさんが赤い顔で瓶ビールを持ち上げた。

「みなさん、ほんとうにありがとう。」

敦史と涼子は寄り添いながら、ロクの料理を食べ続けている。

美佳は再びノートを開く。

『やっぱり好き!(仮題)』は、逆境を背負いながらも、串カツろくで愛を確かめるカップルの物語だ。

フィクションという枠を乗り越えて、鮮やかな情景を紡いでいった。

やっぱり、物書きはやめられない———。

美佳は飲みながら、新たな作品のストーリーを考え始めた。

その夜、串カツろくでは、二人を祝福する乾杯と笑い声が、遅くまで続いた。

自転車には自分を変える力がある。遠回りしたら、知らない景色と出会う。風を感じたら、季節の流れを知る。そんな発見をする、自分に驚く。ももちゃんが毎日楽しそうなのは、いつもペダルを漕いでいるからかも。

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「あれ?ももちゃん、もうお店にいるの?」

常連客のなかちゃんは店の扉を開けるなり、目を丸くした。

ももちゃんは、そうよー、と得意げな顔で応えた。

「なかちゃん、どうしたんですか?」

状況を知らないロクは、二人の顔を見比べる。

「俺ね、さっきまで豊田市美術館にいたの。車で帰るときに、ちょうどももちゃんが美術館を出て自転車を漕いでる姿を見たんだよ。猛スピードで国道を駆け抜けているももちゃんに、手を振ったら気づいてくれて」

「なかちゃん、『和食のこころ展』、よかったよねー」

ももちゃんは満足した表情だ。

「豊田からここまで、自転車だったらどう考えても1時間はかかりそうなのに。どれだけスピード出してるんだろう」

しかも、ももちゃんの自転車は変速ギアが搭載されているようなマウンテンバイクではない。かごが付いているだけの、いわゆる「ママチャリ」である。

なかちゃんは、「それにしても変だよなー、早すぎるよなぁ」と呟きながら飲み始めた。

「ぼく、ももちゃんが自転車乗ってるところをセントレアで見かけたよー。」

「私はなばなの里でみた。」

「モリコロパークの駐輪場にもいた!」

周りのお客からも、ももちゃんの自転車姿の目撃情報が次々に飛び交った。

ももちゃんは、えへへ、と笑いながらも手際よく仕込み作業を手伝っている。頭のてっぺんに固定されたお団子ヘアは、綺麗にキープされている。

雪が舞う、寒い日の午後。ロクが困った顔でももちゃんに相談した。

「中央道の大雪の影響で、物流が滞ってて。市場のキャベツが品薄なうえ、価格も高騰してる。今日の付け出しのキャベツ、ちょっと少なめにして出してね」

「わたし、安いキャベツを沢山売っている店、知ってる!」

「え、どこ?」

「大須の八百屋さん!今から買ってくる!」

ももちゃんはすでにコートを着て、自転車に跨ろうとしている。

「ももちゃん、もうすぐ開店時間だから、明日でいいよ」

「大丈夫!間に合うようにするから。」

ももちゃんは爆走で駆けて行った。

開店時間ぎりぎりになって、ももちゃんは戻って来た。

「ただいまー」

自転車のかごと、背中に背負うリュックには、キャベツがぎゅうぎゅうに詰め込んである。

「実はさー、帰る途中で、警官から職質にあっちゃって」

「え!なんで?」

ロクは驚いて聞いた。

「思い切りスピード出して走ってたら、止まってくださーい、って拡声器で言われたの。

キャベツをぱんぱんに詰め込んで走ってたから、野菜泥棒に思われちゃった」

笑いながら話すももちゃんの肩と頭にはうっすら雪が積もっていた。

ロクは日本酒を小さい徳利に入れて燗につけた。

「ももちゃん。ほんとにありがとう。少しだけ飲んで、からだ、あっためて」

ひっきりなしにお客が続く週末の夜。

常連客の一人であるいっちーさんが、スマホをカウンターに置いたままま、タクシーに乗って帰ってしまった。

スマホはちょうどおしぼりの下に隠れていて、隣に座るお客も気づかなかったのだ。

「ねえ、いっちーさんの家ってどこ?」

ももちゃんが周りのお客たちに訊ねた。

「えっとね、芸術文化センターの裏手にある、レンガ造りのマンションだよ」

「わたし、届けてくる!」

ももちゃんはいっちーさんのスマホを鞄に入れ、自転車のペダルを踏み込んだ。

いっちーさんは千鳥足でタクシーから降りた。

今夜は飲みすぎたな……。そう思いながらマンションのエントランスへ向かう途中、団子頭の、見覚えのあるシルエットが現れた。よく見ると、串カツろくで働くももちゃんだ。

「え……。ももちゃん、なんでここにいるの?」

「いっちーさん、スマホ忘れたから届けにきました!」

「えー!俺がタクシー乗ってる間に、もうここに着いたの?」

「飛ばしてきました!」

ニッと笑うももちゃんに対して、いっちーさんは何度も頭を下げる。

「ごめんよぅ。俺、全然スマホのこと気づかなかったよ。助かったよー。こんな寒さのなか、ありがとうね。よければ家でコーヒーでも飲んでく?」

「大丈夫です。ロクちゃん、今頃一人であたふたしてると思うんで、このまま帰ります!」

「分かった。気を付けてね!」

いっちーさんが言い終わるまでに、ももちゃんは矢のような速さで串カツろくへ向かった。

「TRAIN-TRAIN 走っていーけー♪」

凍てつくような寒空の下。ももちゃんは好きな曲を口ずさみながら、火の玉のごとく夜道を駆け抜けていった。